はじめに
今回お話を伺ったのは、大学4年の7月からフィリピン大学に約8か月の交換留学をし、卒業後にはアメリカ・カリフォルニアのビジネススクールと現地IT企業のインターンを経験した杏さん。帰国後はそのまま就職せずに独立し、現在はIT関連事業の会社を経営して5年目になります。
もともとの第一希望は、アメリカでした。大学3年のとき、学内の交換留学の選考に一度落ちています。それでも「国」より「留学したい」という気持ちを優先して選んだフィリピンで、道を1本挟んで風景が変わる格差と、学生たちが声を上げるデモの日常に出会い、「途上国の目線」を持ち帰りました。そして卒業後、憧れだったアメリカで今度は「先進国の目線」と、言ったもん勝ちの文化を吸収。2つの国で手に入れた複眼と物怖じしないメンタルは、そのまま起業につながっていきます。第一志望に落ちて落ち込んでいる人、留学を将来にどうつなげるか考えたい人に、とくに読んでほしいお話です。
フィリピン・アメリカ 2カ国留学 経験者・杏さん
今回はこの方にお話を伺いました!
- NAME名前
- 杏さん
- GRADE留学当時
- 大学4年(フィリピン)/大学卒業後(アメリカ)
- DESTINATION留学先
- フィリピン大学ディリマン校 → カリフォルニア・アーバイン
- 現在
- IT関連事業の会社を経営(起業5年目)
TOKYOMANILA
始まりは、春休み3週間の「親戚の家ステイ」。ボランティアで英語を使いにいった
英語への興味は、小さい頃に見た海外ドラマや映画から。「大学生になったら、なんとなく留学に行けるんだろうな」という気持ちで大学に入学し、入ってから本格的に準備を始めました。進学したのは津田塾大学。英語が大好きな人たちが集まる環境です。
最初の海外経験は、大学2年が終わった春休みでした。アメリカに住む親戚の家に3週間滞在。語学学校には通わず、地域に飛び込んで英語を使うという滞在です。
地域のゴミ拾いイベントの準備を大人たちに混ざって手伝ったり、幼稚園みたいな施設で砂遊びの先生のお手伝いをしたり。海外の大学にも興味があったので、カリフォルニア大学のいろんな校舎を見学しに行ったりもしていました。
観光ではなく、地域のボランティアとキャンパス見学。この3週間が、「海外の大学で学んでみたい」という気持ちを具体的なものにしていきました。
第一希望のアメリカに落ちて、「国」より「留学」を取った
大学3年のとき、杏さんは学内の交換留学選考で、アメリカの大学に出願します。しかし、結果は不合格でした。
津田塾は英語が好きな人が集まっている一方で、大学の規模が小さいので、大きな私立大学と比べると交換留学先の選択肢も募集人数も少なくて。3年生のときは、一度アメリカの大学に落ちてしまったんです。
翌年、もう一度挑戦するにあたって、杏さんは考え方を整理しました。自分にとって大事なのは「アメリカに行くこと」なのか、「留学すること」なのか。
4年生のときもアメリカは視野に入れていたんですけど、国を絶対アメリカにするっていうことよりも、留学したいっていう気持ちのほうが上だったので。英語圏ということで、フィリピンにしました。
こうして決まった行き先が、フィリピン大学ディリマン校。マニラにある、フィリピン最高峰の国立大学です。たくさんの学部と広大な敷地を持つ、フィリピン大学システムの中心校。「アメリカに行けなかったから」で始まった留学が、結果的に人生を変える8か月になります。
開発学、フィールドワーク、アジア開発銀行。「日本ではできない勉強」を選んだ
フィリピンを選んだ理由は、英語圏だからというだけではありません。もともと貧困問題や社会問題に興味があった杏さんにとって、発展途上国で学べることは大きな魅力でした。
実際に現地でフィールドワークができる開発学の授業とか、経済学、開発経済学の授業を受けていました。開発銀行で働いていた経験のある教授の授業では、実際にアジア開発銀行に見学に行かせてもらう機会もあって。日本ではできなかった勉強だなと思います。
一方で、体育の授業でダンスやヨガも受講。ガチガチに専門だけを詰め込むのではなく、交換留学生の自由度を生かして「取りたい授業を取る」スタイルです。授業は週4日・1日3コマほどで、週に1日はまったく授業のない日を作っていました。朝の早い授業も多く、生活は自然と早寝早起きに。
そして、フィリピンの大学には日本と大きく違う点がありました。課題の中心が、テストではなくプレゼンなのです。
日本の大学より勉強させられるな、という感じはありました。テストじゃなくてプレゼンを作るのが課題だったりするので、提出物の前は土日も準備をして。でも、あくまで留学生なので自由な時間もあって、いろんな国の子たちとご飯に行ったり、近くのショッピングモールに行ったりしていました。
道を1本挟むと、風景が変わる。毎日がドキュメンタリーのような8か月
フィリピンでの日々は、教室の外にこそ「教材」がありました。
日本だと、道を1本外れたからって家の様子が急に変わることはないじゃないですか。でもフィリピンは、道を1本2本移動しただけで明らかに違う。大豪邸の横に掘っ立て小屋があったり、大きな高層ビルの真下に貧困層の方が住む地域があったり。格差が目の前にあるんです。毎日が、社会問題のドキュメンタリーを見ているような感じでした。
格差は、同じ大学の中にもありました。iPhoneを持っている学生と持てない学生。いつもきれいな襟付きの服を着ている学生と、炊き出しに並ぶ学生。「同じ大学に通っていても、格差が目に見える」ことは、日本の大学生活では経験したことのない衝撃でした。
もうひとつ、日本と大きく違ったのがデモの多さです。政府が教育の場に圧力をかけるようなことがあれば、大学の中でもすぐに大規模な集会が開かれる。米価の値上げに対する農家の不満を直接訴えるデモも頻繁にありました。誘われれば見に行き、ときには参加もしてみる。声を上げることが日常である社会を、肌で感じた8か月でした。
ズーンと暗い気持ちになって、日々考えなきゃいけないっていうのはあったんですけど、無視できないよなと思いながら、考えながら過ごしていました。大学生なので、解決方法がピンとひらめくなんてこともなくて、問題を与えられたまま帰った感じなんです。でも、日本に帰ってきてからも、フィリピンで得た目線で日本の政治や貧困問題を見ることができる。それは明らかに、行く前の自分とは変わったところです。
ちなみに滞在は、ずっと大学内の寮。前半は古い寮で手狭だったため、希望を出して新しく広めの寮に移りました。交換留学のため学費は免除で、8か月の費用は全体的にかなり安く収まったそうです。予定では10か月の滞在が、コロナ禍の影響で2か月短縮に。それでも、「雨が降ると前日の夜に休講が決まって、翌朝晴れていてもそのまま休み」という国立大学のおおらかさに、「生き方、これでもいいんだ」と肩の力が抜けていきました。
卒業後、憧れのアメリカへ。教壇に立つのは、現役の経営者たちだった
フィリピンから帰国して復学し、大学は5年目で卒業。そしてその後の進路は、就職ではありませんでした。3年生のときに行けなかったアメリカへの思いが、拭えずに残っていたのです。家族の後押しもあり、卒業後にアメリカ行きを決めます。
ただ、ここでもコロナ禍が立ちはだかりました。当時のアメリカはワクチン接種が入国の条件で、接種が間に合わない。そこで最初の3か月は日本からオンラインで授業を受け、その後6か月を現地で過ごすという形でスタートしました。行き先は、カリフォルニア州アーバイン。カリフォルニア大学の敷地内にある、留学生向けにビジネス系の授業を展開するスクールです。
MBAの手前みたいなイメージです。チームビルディング、マーケティング、貿易や物流の基礎、会計、組織論みたいな授業を受けていました。先生はほとんどが現役の経営者の方で、ゲストスピーカーに有名な自動車会社のトップ経営層の女性が来たこともありました。働いた経験がほぼない自分が、経営層の方から直接学べたのは大きかったですね。
アメリカは「言ったもん勝ち」。スライドを読むな、と注意された
フィリピンに続くアメリカ生活で、杏さんがいちばん強く感じたのは「主張」の文化でした。
無言でいると、何ももらえないんです。でも「私はこれがもらいたかったのにもらえなかった」「知らなかったからできなかっただけです」って主張すると、機会が与えられたり、「ごめんなさい、これをあなたにあげます」となったりする。言ったもん勝ちというか。思ったことを言う大切さを、アメリカの環境から学びました。
授業もまた、主張の訓練の場でした。2人組になって「あなたは車を売る会社、あなたは買う側」と条件交渉するロールプレイング。どの授業でも、最後の課題はみんなの前でのプレゼンです。しかもそこには、日本では言われたことのない注意がありました。
スクリーンに映しているスライドを読んでいると、「読むな」って注意されるんです。原稿は別に用意して、自分の言葉で話す。最初は怖いなと思いながらやっていたんですけど、だんだん準備も早くなって、プレゼン力がついていきました。
日本では培われなかった、主張する強さと物怖じしないメンタル。「黙っていたらいない人として扱われる」環境が、杏さんをつくり変えていきました。
全米屈指の安全な街・アーバインと、30分先にあった「もうひとつのアメリカ」
滞在先のアーバインは、「全米でいちばん安全」のランキングで知られる計画都市です。一人で渡米する杏さんが、治安の良さを理由に選んだ街でした。
ロサンゼルスに行くと、ずっとマリファナの匂いがしていたりするんですけど、アーバインはそんなこともなくて。暗くなってから女の子2人で歩いていても、まあ大丈夫という感じでした。道路もきれいに舗装されていて、アジア系の方が多く住んでいる地域なので、日本人としても馴染めて過ごしやすかったですね。
休みの日はバスでビーチへ行き、ときどき車で1時間のロサンゼルスへ。学校が休みの期間には、「日本から行くより安いから今のうちに」とニューヨークへ国内旅行もしました。住まいは、最初の3か月はエージェントで見つけた同じスクールの女子学生たちとのシェアハウス。ただし家賃が高く、後半の3か月は「部屋が空いてるよ」と誘ってくれた元クラスメイトの家に移りました。
その引っ越し先は、ラテン系の住民が多く暮らす地域でした。高級住宅街のアーバインから30分ほど離れただけで、家賃も住む人も変わる。当時のアメリカで移民への取り締まりが話題になるなか、その生活を間近に見る機会にもなりました。フィリピンで手に入れた「格差を見る目線」は、先進国アメリカの中でも生きていたのです。
社長とのミーティングに、インターンも入る。アプリ開発のIT企業で働いた3か月
ビジネススクールのコースには、修了後に申し込めるインターンの仕組みが組み込まれていました。杏さんが働いたのは、友達作りのマッチングアプリを開発中のIT企業。ポジションは、ソーシャルメディアマーケティングです。
大きな会社ではなかったので、開発者の方と社長とインターンが同じミーティングに入れてもらえたんです。「君は日本人だから」って、アプリ内の表示の日英翻訳を任せてもらったり、「英語って日本人にとってどんな感じなの?」と意見を聞いてもらえたり。大学生だからこのくらい、じゃなくて、その子ができることをどんどんやらせてくれる。年齢で過小評価しない雰囲気がいいなと思いました。
急にミーティングが入れば、外出先からでも参加する社長。若手にも実力ベースで仕事を任せるカルチャー。経営者が教壇に立つ授業と、スタートアップの現場。この6か月で、杏さんは「世界の経済の中心」を肌で感じていきました。
フィリピンで途上国の目線しかなかったのが、アメリカに行ったことで先進国の代表みたいな国の目線も取り入れられた。途上国が「かわいそう」で終わるんじゃなくて、どうして国際社会がこういうふうに回っているのかが少し垣間見れた。2つの違う国に行って、本当によかったなと思います。
帰国して、就職ではなく起業へ。「弱み」を個性に変えた
帰国後、杏さんは会社に就職する道を選びませんでした。まず個人事業主として仕事を始め、半年後に法人化。インターン先がIT企業だった経験と「この時代はITが強い」という読みから、IT関連の事業を選びました。現在、経営は5年目に入っています。
日本で働いた経験はインターンくらいしかなかったので、サービスを売るとはどういうことなのか、というところから素人でした。先輩の経営者の方にアドバイスをたくさんいただいて、悩みながら、ちょっとずつ経営者として成長している感じです。スタートは本当に、何もわからない状態でした。
それでも踏み出せた土台には、留学で得たものがあります。
フィリピンでもアメリカでも、外国人だからこそ、年齢とか女性であるとか、見られ方をあまり気にせずに行動できたんです。だから日本に帰ってきてからも、若いとか、女性だからとか、日本で働いた経験がないとか、弱みになりそうな部分を気にしすぎず、逆に自分の個性として、覚えてもらえる強みにしていこうって。そういうポジティブシンキングに変えられたのは、留学で学んだところです。
もうひとつ、杏さんらしい振り返りがあります。フィリピン留学で卒業が1年延び、大学は5年で卒業しました。普通なら「遅れ」と捉えそうなこの経験を、こう語ります。
一度5年生で周りとズレたので、逆にそこからのズレはもう気にならなくなったんです。だから挑戦しやすくなったかなと思います。
留学を考えるあなたへ
最後に、留学を考えている人へのメッセージをお願いすると、自身の「不合格」の経験を踏まえた言葉をくれました。
人気の国や人気の学部に行けないことって、留学したい人の中ではよくあることだと思うんです。希望の大学に行けなくて第二希望、第三希望になったとしても、落ち込みすぎないでほしい。私も一瞬は落ち込みましたけど、引きずらずに「じゃあこの国に行ってみよう」って選択したのは、めちゃくちゃ良かったなと思っていて。その国に行ったからならではの学びが必ずあるので、第一希望に行けなくても失敗ではなく、運命だったと思います。
アメリカに落ちたから出会えたフィリピンが、「途上国の目線」をくれた。その後にたどり着いたアメリカが、「先進国の目線」と主張する強さをくれた。2つの目線を手に入れた人の「運命だった」は、強がりではなく実感です。
取材を終えて
杏さんの話でいちばん印象的だったのは、「第一希望に落ちる」という、留学あるあるの挫折の扱い方です。アメリカに落ちたとき、「国」と「留学」のどちらが目的なのかを整理し直して、フィリピンを選ぶ。その切り替えがなければ、道1本で風景が変わる格差も、声を上げる学生たちも、雨で休講になるおおらかさも、出会えないままでした。挫折を「運命だった」と言えるのは、落ちた後の選択が良かったからです。
もうひとつは、2カ国の順番の妙です。先に途上国のフィリピンで「問題を与えられたまま」帰り、その目線を持ってから先進国の中心・アメリカへ行く。だからアーバインの高級住宅街から30分先の地域にも目が向くし、「かわいそう」で終わらずに国際社会の構造を考えられる。2カ国留学の価値は、国の数ではなく目線の数なのだと教えてもらいました。
そして、その目線と「言ったもん勝ち」のメンタルは、いま経営者としての杏さんを支えています。若さも、女性であることも、日本での就業経験のなさも、個性であり強み。5年目に入った会社のこれからと、「個々を見て共存できる社会にしたい」という願いの先が、今から楽しみです。
